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驚異的な作品数 | |
円空について、まず、誰もが驚くのは、生涯で12万体あまりの仏像を作ったということでしょう。64年間の生涯で単純計算しても、年間で1800体以上の仏像を製作していたことになります。 その製作能力には驚くばかりですが、これは元禄3年に岐阜県高山市で製作した今上皇帝像の背面に、「十マ仏作己」(10万体造顕を達成した)と記されていたため、生涯で12万体というのが通説になっています。 現在、円空仏は岐阜県内だけでも1000体以上、全国で約4500体が現存し、名古屋市の荒子観音寺には「千体仏」も残っています。 |
魅力的な作品 | |
円空仏は、約300年も昔の作品であるにも関わらず、今でも人々の心を打つ魅力にあふれています。それは慈愛に満ちた「微笑」の魅力です。これは一般的に柔らかい表情の多い観音菩薩・地蔵菩薩だけでなく、厳めしい表情が多いとされる不動明王や仁王像に至るまで口元に微笑が込められています。また、仏像製作を重ねるうちに造形の簡略化が進み、荒削りながらもそれが逆に木目や節や割れ目といった、木という素材の魅力をダイナミックに引き出しています。 造形の簡略化は同時に仏像の量産を可能にし、本格的な仏閣に奉る仏像だけでなく、多くの人々が身近に拝観できる仏像も提供しました。道端に転がっていそうな木の破片を削った、いわゆる「木っ端仏」も円空は多く製作していますが、それらが飢えや疫病や災害に苦しんでいた当時の民衆に安らぎを与えてくれたことは想像に難くありません。木の破片から生まれた荒削りな仏像にもかかわらず、その多くは捨てられることなく現在まで大切に受け継がれています。 |
円空の生涯 | |
美濃国(現在の岐阜県)に生まれた円空は、早くから小僧として仏門に入りましたが、長良川の洪水で母を失ったのを契機に寺院を出て窟ごもりや山岳修行するようになりました。 そして、美濃国を拠点としながらも修行を重るため全国を行脚し、各地の寺院の住職や民衆たちと交流を深めました。そして民衆を苦しみから救うため、悩み苦しむ人には菩薩像を、病に苦しむ人には薬師像を、災害に苦しむ人には不動明王像を、干ばつに苦しむ人には竜王像を、限りある命を救うために阿弥陀像などを刻み歩いたようです。その足跡は美濃・飛騨・近隣の愛知・滋賀・長野などにとどまらず、近畿・関東・東北・北海道にまで及びます。 やがて、一所不住ともいわれた円空は、自ら再興した岐阜県関市の弥勒寺に落ち着くようになり、そこを拠点に仏像製作の旅を続けました。その頃には円空にも弟子が付くようになっていました。 誓願の12万体の仏像を彫り還暦を迎えた円空は、母の命を奪った長良川を入定の地と決め、弥勒寺境内の同川の畔で即身仏として素懐を遂げました。 |